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中華見聞録-中国ウォッチャイナ!

日本では紹介されることが少ない 中国のニュースや記事を翻訳して紹介しています。 まだまだ素人なので 翻訳が未熟な部分はご容赦下さい・・(^_^;

92歳の元日本軍の看護婦が亡くなった。生前解放軍に参加し日本の罪を償った

軍事
92岁原日军女护士辞世 生前加入解放军为日本赎罪

伊藤郁子、日本で生まれ、生前如皋市人民病院の1看護婦であった、29歳から始め、彼女は自分のすべてを如皋市の衛生計画生育の事業に捧げた。昨日(12月8日)午後6時05分、伊藤郁子は如皋で亡くなった、享年92歳。

伊藤郁子、女性、1925年日本岩手県生まれ、もと日本軍駐東北第一陸軍病院の看護婦。

1945年8月、第2次世界大戦は終わり近くなり、日本軍駐東北第一陸軍病院は上から撤退命令を受た。院長は2千数名の負傷者と医療関係者を連れて一生懸命に逃走したが、波濤の牡丹江に行く手を遮ぎ止められた。院長は東洋の刃物を振り回してみんなを脅迫し大きな川に飛び込み自殺し、牡丹江はすべての若い生命を丸飲みにした……

この経歴、永遠に残す書類の資料と伊藤郁子の記憶の中。伊藤は当時強いられて大きな川に飛び込んだが、幸いなことに彼女は九死に一生を得た。“看護婦の時日本軍の残忍を目撃し、彼らはそんなにたくさんの中国人を殺し、私は手柄の罪を償って、日本人のために弁済します。”大きな川の中から危険状態を抜け出した後、伊藤は解放軍救護チームに引き取られ世話をさせられて、皐籍の戦士そしてずっと中国に残って、生き残った命を衛生的な計画生育の事業に捧げた。 


伊藤は第二次世界大戦の終わり頃に中国に来た。伊藤郁子は健康で平和な夢を持った人になる事を夢見ていた。“私は1925年に日本の北海道近く岩手県郊外の1つの普通な家庭で生まれ、父の伊藤管治は岩手県の農業と林業局専門員、母はしっかりしている主婦、私は家の三番目の子供、小さいときからよく泳ぎ、水泳は得意でした……”

伊藤は流暢かつさわやかに語り、ひとつの伝奇的なストーリ、1つの紆余曲折の人生が記者の目の前に現れた。

1945年、20歳の伊藤は日本盛岡市の“赤十字会”の看護婦学校から卒業し、中国の東北に派遣させられ、“中国東北第一陸軍”の野戦病院の看護婦になった。そこで、彼女は日本軍の中国人に対する残忍さを見、心の中は常に恥じてとがめる気持ちで満ちていた。大川事件が発生した時、伊藤はひとつの木に抱きつき、身を躍らせて激流に跳び込み、伊藤は大きな川の中で絶望してもがいたことがある。“私は、私まだ20歳、とその時考えていた、軍は多くの中国人を殺し、私は死ぬことはできず、私は罪を償い、彼らのために弁済した。”彼女は言った、その時自分で水泳術により、大きな風波と格闘しながら、やっと九死に一生を得て岸辺に泳ぎついた。“その時日本軍はすでに逃げて影も形もなく、私は髪の毛を全てそって男装し避難する人の群れにまぎれこんで、2日以降に解放軍医療救護チームに引き取られ世話させられ、そこで負傷者の行列に緊急措置をとるようになりました……”

伊藤が経験したこのすべては書類に記録された。 

抗日戦争勝利後

伊藤は日本に帰ることを諦めた。中国で、彼女は収穫し感動し、愛情をも収穫した。伊藤は記者に対して言った、彼女は解放軍医療救護チームに参加し、彼女は1名の両足を切除する若い戦士を看護した。戦士が臨終になる前に、身辺の唯一の林檎を伊藤郁子にあげて感謝した。“私の涙ぽろぽろ泣きました、それは1個普通の林檎ではなく、非常に熱い中国の心です。”

またたく間に、抗日戦争は終わった。この時伊藤の目の前に2本の道があった、1本は日本に戻る道、もう一つの道は中国に残る道であった。“私は両親を懐かしんでいました、しかし私が目の前に日本軍が浮かび、大きな刀で中国庶民を殺戮した悲惨な場面を思い返す時、私はとてもうしろめたくて、この血の債務は日本人の子孫万代も完済できません。また中国の軍人が自分を引き取って世話し頂きそして自分に中国語を教え漢字を書くように教えられた事を思い返して、私は残って弁済しましょう!”と考えた、このように、伊藤はそのまま残り、解放軍牡丹江野戦病院の1名の看護婦になった。

伊藤郁子は思い出す、牡丹江野戦病院で、自分で骨身になり、自分のO型の血で17人の中国の軍人を救ったでことがある。解放戦争の後期、東北軍区の副司令員周保中は病院で負傷者を見舞う時に彼女に接見し、“私日本の女傑を称賛する!”

“私は25歳の時解放軍の山西リハビリテーション病院に着き、そこで私の愛情に出会いました。”伊藤郁子は記者に対して言った、そこで怪我を治しに来る宗序定に出会い、原籍は如皋、その時彼は公安中央縦隊の第1師第3団の1将校だった。2人はひと目ぼれをし、1年後に、その他の日本の女性兵士が帰国を申請する時、伊藤は中国の国籍に参加する事を申請し、その年宗序定と良縁を結び、次の年1人の活発で可愛い娘を生み、1954年、三人家族は江蘇如皐県城に帰り定住し、伊藤は県人民病院外科で看護婦になり、それからこの地に根を下ろす。

3年の自然災害の困難の時期、伊藤は生活を切り詰め、お金を困難の患者のため魚を買い良い肉の食事を買って、何度も無償献血を農村の患者の生命のために行い、自分は毎日毎日やつれて、体重は最低で60斤まで下がった。“その話がその時の県長の魏志田の耳に届きました、魏県長は黒砂糖、卵、ラードを提げて病院に来て私を見舞い、そして彼女が1週間でちゃんと食べるように院長に言いつけて、他人に渡すことを禁じました。”伊藤は記者に対して言い、自分で誠心誠意患者のサービスする精神のためにみんなの好評を得、院長はみんなに“伊藤郁子に学ぶように”と話した。

伊藤郁子は記者に彼女と周囲の人の昔の事を述べ、10年の大災害の中で、病院に飛び込んだ“日本のスパイ”と闘う反対派がある。その時70数名の患者と医療関係人員が整然として事務室の前で阻止するのをさえぎった。院長を含めるすべての人は言った:“伊藤は功労がある臣です、私達に必要な人です。”場にいる人はいっしょに伊藤をかばい、伊藤は内心から心から感謝した。 

92岁原日军女护士辞世 生前加入解放军为日本赎罪

中日が国交樹立した後

1972年、中日の国交が正常化した後に、当時の11月末、伊藤郁子は日本の親族訪問する手続きをし、長年別れた27年後、初めて日本と身内に帰って再会した。書類の資料の中に帰国する親族訪問する記録伊藤があり、その時日本のメディアはこの事に対して盛んな報道を行った。

伊藤は思い出して言った:“その時如皐県人民病院の百人近くの医療関係人員が私のために送別の宴を開き省、市、県があって、送別会の上でみなシンとして、多くの同僚はこっそりと涙を流し、彼らは私がもう帰って来ないと思っていました……”

27年後に初めて帰国し、伊藤の内心は興奮に満ちて、日本の現地政府の官吏と親友はいっしょに彼女を迎えそして盛大で厳かな歓迎式を開催した。

“その時84歳の高齢の母は私を抱きしめて泣来ました、彼女は、家の条件は中国より良いでしょう、と言います、”伊藤は帰国して親族訪問するという情報は日本全体を驚かした。資料によると、その時日本東京のいくつかの新聞は皆一面トップで報道をした。“日本の外相の大平正芳は首相府で私に接見し、彼は私が日本に帰り定住を願うと言った、彼は日本政府は心から歓迎すると言いました。しかし私はずっとほほえんで態度を表明することしませんでした。”

伊藤は記者に教えた、事実上、あの時自分ですでに早く帰ることを決心した。“病床の前で、年を取っている母はしきりにお願いしました、私をが帰国し定住して彼女の最後の歳月に付き添って欲しいと、しかし私は中国を離れることはできなく、そこに私の夫と娘がおり、私の事業があり、数え切れない善良な中国人がいる。”伊藤の子は母に対して言った:“私は第2回の肉親と別れることはできません!”

このように、1973の春節の前夜、伊藤は涙を浮かべて身内に別れを告げ、除夜の夜に昼夜懐かしく思う中国に駆けて帰った。“中日の国交樹立の後で、私は5回日本に帰って親族訪問し、毎回すべて早めに帰って、私の心が永遠に中国にあるためです。”

記者の取材を受ける時、伊藤郁子の情緒はずっととても落ち着いており、彼女は《地下道戦》、《平原遊撃隊》などの抗日戦争の題材の映画を見ることが好きだと言い、いつも日本の軍国主義の暴行の時がとてもつらいと、よく自分が反省するのが、私は中国人民のために何を持ってきたのか。彼女は記者に《南京大虐殺》の感銘を述べ、その時抑えられない涙がほろほろと流れた。“日本の軍国主義は人々をとても罪を傷つけた……”

伊藤郁子が退職した後、依然として平和のために全力を尽くした。“彼女は私の家の子供学校の校外指導員で、彼女が退職した後に子供達に対して愛国主義を行って教育を堅持し、同じくそのため、私は伊藤を知っていました。”1人の伊藤の友達は記者に対して言った。要請があり、伊藤は現地の子供達に国を愛する教育のイベントに参加し、彼女の講演はまた受賞したことがある。伊藤は、“いつも少年は私に赤いネッカチーフを結びをくれる、と言う、皆私が革命のストーリを言う時座って、私は最も楽しい。”小学生達はすべてとても伊藤が好きだったが、しかし今の彼女の体はとても弱く、ほとんど外出することはできなかった。

1994年、伊藤の夫の宗序定が亡くなった。1998年、日本の“赤十字会”は慰労金と1枚の手紙を伊藤に送った、彼女に子供とともに日本に帰って定住の打診です、日本政府は住宅を用意し、そして担当者が世話して彼女の晩年が生活出来るように手配すると。しかし伊藤はすぐ返事を出した:“私を生み育てた母、私は桜の色鮮やかで美しい日本が好きです、でも私は更に社会主義の中国が好きです!私の心は永遠に中国にあります!” 
元の記事
http://news.qq.com/a/20161210/009556.htm


 中国人のコメント

すべての日本人が悪人というわけではない
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知っているただ一人の善良な日本人、これは尊重に値する、その他の日本人はすべてこん畜生だ
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罪を償う?償ったら終わりか?数え切れない亡霊、亮剑里の話があり、戦争して誰になって攻撃したか?大隊長は言った:あなたのお父さんのため、あなたのお母さんのため、無念の死を遂げた中国人のために攻撃しました!日本人の罪は償えない 
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去年TBSで放映されたRED CROSS -女たちの赤紙-』の主人公のモデルですね。
しかし、中国で日本軍による殺戮が行われていたという部分には疑問があります。
本当に彼女が語った言葉なのかな?